薪窯づくり プロローグ

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(2013年12月31日 記事)

薪窯を築き、土を焼く。これは16歳で陶芸を始めてからの憧れでした。
僕は黄瀬戸や豪快な志野茶碗で知られる加藤唐九郎先生の窯焚きの写真を雑誌から切り抜いて、自室に飾って眺める高校生でした。
高校の部活で陶芸をやり始め、いろいろ知っていくうちに、粘土そのものを窯で焼き上げる信楽焼や備前焼に興味を持つようになりました。これは高校時代に知り合った備前焼作家の川端文男先生や信楽焼作家の神山清子先生の影響が大きくあります。

高校卒業後は神山清子先生に師事しました。作業場の2階に住み込み、内弟子として生活を共にさせていただいた3年間の修行生活は、陶芸に対峙する神山清子先生を、もっとも近くで感じ取ることのできた貴重な時間となりました。
美しい青みがかった自然釉に覆われた神山清子先生の作品は信楽の粘土を半地下式穴窯で2週間以上も高温で焼き続けることによって、器物に積もり積もった灰が粘土の中に入っている成分と融合して自然と溶け出したもので、まさに炎の芸術です。
窯の中で作品が少しずつ炎に焼かれて、輝きながら刻々と変化する様子を窯焚きをしながら見つめ、薪窯への憧れを僕は強くしました。

修行後、新天地を求めて信楽を離れて北海道の剣淵町という人口4000人ほどの町に移り住みました。ここには粘土があると聞いたからです。そして、平成9年に薪の窯を初めて作りました。
古い電信柱を知り合いから譲っていただき、それを柱にして波トタンで屋根を葺いて窯場を作りました。(今思うに粗末な構造でした。)

そして耐火煉瓦を購入し、小振りの穴窯を作りました。この窯は温度ムラがとってもあって、3回ほど焚きましたが結局思うようになりませんでした。その後、焚き口の上に煙突があり、炎が窯の中でターンして焚き口上部に戻ってくる構造の窯も作りました。こちらはムラも少なく3年間使いましたが、だんだん仕事が忙しくなり、薪づくりが間に合わず、結局灯油のロータリーバーナーを焚き口に突っ込んで使っていました。
この窯は引っ越しする時に、すべて撤去してしまいました。壊した窯の耐火煉瓦は今でも大切にとってあります。

それにしても、陶芸家の引っ越しというものは大変です。
その当時ですと、薪4トン、耐火煉瓦2000個、カオリンや長石などの原料1トン、粘土2トン、その他に土練機などの機材などなど、、、、移動は恐るべきものでした。この移動は知り合いから2トントラックを借りて、すべて自力でやりました。

しかし、引っ越しして1年で引っ越し先の飲み水が飲めなくなって、翌年にはまたもや引っ越。今度は電気窯2基、土練機ももう一台加算、おまけにカオリンを1トン購入したばかりでした。それ以来、引っ越さなくてもいいように土地を所有する事への執着が強くなり、土地を所有した後に薪窯は作ろうと決意を固めました。

そして、ようやく2年前に念願かなって旭川に土地を所有する事が出来ました。しかも旧旭川温泉という広い屋内空間と4000坪という敷地面積。これからの人生。思う存分の事が出来そうな素晴らしい場所です。

ということで、前振りが長くなりましたが、ようやく薪窯作りが始まります。

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