裸の大将と山下清

(2011年10月14日 記事)

 日本には日本独特のアール・ブリュットの解釈、進化があるのではないか、そんな事を今、私は考えている。のらりくらりだが、しばらくその考えをこの紙面でまとめたいと思う。

 日本で最も早期に発見され、日本史上で最も知られてい るアール・ブリュットの作家は山下清だろう。しかし、私たちが想い描く山下清はテレビや映画などのために過度に演出された「裸の大将」でしかなく、本来の 山下清をあまり知らない事に気付く。
 まずは山下清について考えてみたい。

 山下清は1922年東京に生まれる。10歳で父が他 界。12歳になると勉強について行けず、千葉県の知的障害児養護施設八幡学園に入所。他生徒に暴力をふるう問題行動から園長の発案で貼り絵に取り組む。 「踏むな 育てよ 水そそげ」という学園の教育理念によって、教員達は辛抱強く山下清の個性を伸ばすように創作活動に寄り添った。また、顧問医の式場隆三 郎の指導も受ける事となる。式場は精神科医でゴッホ研究でも有名な人物で、山下清の創作活動への影響力が最も強かった人物である。
1937年に早稲田大学心理学教授戸川行男が八幡学園の園生の作品で「特異児童労作展覧会」を開催、山下清の貼り絵が脚光を浴びる。

 山下清は18歳から33歳までの15年間に、一回5ヶ月から3年近くにも及ぶ放浪生活を8回ほど繰り返す。八幡学園では放浪から戻って来る山下清を注意はするものの温かく受け入れている。放浪日記や貼り絵は学園にて創 作されており、旅先ではほとんど描いてはいない。山下清にはもともと特異な才能があって、物事、図像を鮮明に何年も膨大に記憶することが出来たのだった。

 アメリカ「ライフ誌」が山下清の存在に興味を抱いた事から、朝日新聞社が1954年「日本のゴッホいまいずこ」と見出しをつけて当時、放浪生活をする山下清を記事にする。このため山下清の存在は国内に知れ渡り、4日後には鹿児島県内で保護されている。そして、国民的な人気者となる。1956年には大丸東京店で一ヶ月「山下清展」が開催され80万人もの動員となる。また、1958年、小林桂樹主演映画「裸の大将」が封切られて大ヒット。その後はテレビ出演や展覧会の開催などが続いた。1971年7月突然の脳出血で倒れ、永眠する。享年49歳だった。

 山下清の人生は、関東大震災、太平洋戦争、戦後という時代背景の中で数奇な運命をたどったものだった。

(あさひかわ新聞 10月11日号「アールブリュットな日々」掲載)
写真:山下清関連の図録、著書の一部