「アール・ブリュット」とは何かを考えてみる(5)

2013年6月27日 記事

これまでアール・ブリュットを密教と比較して考察することによって、アール・ブリュットの世界観を浮かび上がらせてきた。しかし、こうした考え方を日本人以外の人と共有することは、経験上、大変難しい。

 「草や木、石や物に魂があるか」と問われたら、あなたはどう答えるか。きっと「ある」と答えるか、そうでなくても理解はできるのではないだろうか。しかし、実はこうした考え方は日本人特有のもので、密教が伝わるチベットでさえ、虫や獣には魂があっても草や木には魂は無いと考えられている。

 日本は、仏教が大陸から伝来した後も、古来より続いてきた森羅万象に八百万(■やおよろず)の神が宿るとするアニミズム的な世界観を大切に残した。それが今日まで影響を及ぼしているのだろう。携帯電話などが日本市場で独自の発展を遂げ、海外との汎用性を失うことをガラパゴス化というが、今に始まった訳でも無さそうだ。アール・ブリュットを考えていく上で、日本の特異性までも知るに至ったのはとても面白いことで、言い換えれば日本こそアール・ブリュット的な国とも言えるだろう。

 考え方の違いから、長年アール・ブリュットを研究してきた欧米の人たちと密教を題材に語り合えないのは、私としては非常に残念だ。しかし同じように欧米の研究者の中には、中世ヨーロッパで盛んに行われた「錬金術」からアール・ブリュットを考察している人もあって、実にユニークだ。このように多様な角度からアール・ブリュットを考える行為、それがアール・ブリュットを鑑賞する醍醐味だと私は思っている。

 アール・ブリュットが出来上がった背景が、そもそも現実社会や孤独からの逃避で、その表現が一見おどろおどろしく直視出来ないものであっても、非現実の世界を作り出して、そこに活路を見出そうとした作者の想いがちりばめられている。「アール・ブリュット」を考察することは、作者と時空を超えて非現実の宇宙を共に冒険する行為でもあるのだ。

 有名、無名に関わらず、アーティストとその創造の世界を探求する行為は時として、自分の内面を探り当てることにも繋がる。アール・ブリュットは表現の根底が深い為に、逆に自分自身の深い精神性を見つめることにもなるのだろうと私は感じている。

 是非多くの人に、アール・ブリュットを知ってもらいたい。

 ところで百年以上の歴史を誇る芸術の祭典、ヴェネチア・ビエンナーレに今年、滋賀県の澤田真一さんの作品が招聘、出品されている。数年前まで世間にその存在が知られることの無かった澤田作品が、ついに国際的な芸術の檜舞台にまで躍進したのは快挙だし、痛快だ。心からの祝辞をお送りしたい。私が澤田さんの宇宙に魅入られたように、これから世界中の人々がどんどん巻き込まれることだろう。

(写真:澤田真一作)

「アールブリュット」とは何かを考えてみる(4)

(2013年5月14日 記事)

 非現実の世界を創造主として一から作り上げてしまおうとするアール・ブリュットの作家の考え方からすると、その世界では当然、自身が神となる。唯一無二の神、つまりキリスト教でのキリストやイスラム教でのアッラーのような一神教の神である。アロイーズやヴェルフリなど西洋のアール・ブリュットの人達の作品には、しばしば自身を神として崇める傾向が見られる。

 これまで、アール・ブリュットと密教を比較して考察を重ねているが、密教は一神教ではない。前回説明したように、全宇宙の創造主が大日如来であるのなら、なぜ大日如来が唯一無二の神として存在しないのか。これには密教独特の解釈がある。
 例えば、陶芸家の私が「うつわ」を作っているとする。この立場を一神教的に考えると「うつわ」にとって私は、色や形を与えて生み出しているので創造主となる。しかし密教では「うつわ」そのものが自然と沸き上がって生まれ出て来たものと考えられている。確かに見方を変えれば、私は粘土を「うつわ」へと形を変化させたに過ぎない、形あるものはいつか壊れる。「うつわ」もいずれはまた土に戻っていくのだから、創造というものは一時的であって、あってないようなものなのだ。それは私という存在そのものも同じだ。
 簡単に言ってしまえば大日如来は宇宙の創造主であり、創造されるものでもある。つまり全宇宙を構成するすべての存在となっているのだ

 アール・ブリュットの提唱者であるジャン・デュビュッフェと親交を重ね、55年にも及ぶ歳月をアロイーズ研究に情熱を注いでいるアロイーズ財団の会長ジャクリーヌ・ポレ=フォレルは、2009年に開催した「アロイーズ展」のために来日した際、文楽をとても見たがっていた。あいにくスケジュールが合わずにその願いは叶わなかったが、今になってなぜ彼女が文楽を見たがっていたのかがよく分かる。
 文楽は操り人形を動かして浄瑠璃を演じるのだが、舞台には、操り人形の他に人形遣い、物語を語る太夫、三味線が存在している。観客からは人形の他に人間の姿が丸見えなので、虚構の世界を現実の世界の中に作り上げている様子を見ることになる。
 つまり文楽は虚構の世界と現実の世界という2つの異なった次元を同時に体感させる劇場なのだ。この現象にオペラを題材とした非現実の世界を作り上げたアロイーズを当てはめると、操り人形である自分、操り人形を操作する自分、操り人形である自分が自分によって操作されている舞台を観客として俯瞰して見る自分というような構成になったのではないかとジャクリーヌさんは思い当たったのだろう。
 どの断片にも自分の存在がある。つまりアロイーズは創造主であって創造されるものでもある。密教における大日如来の考え方に当てはめると、アロイーズは自身の宇宙を構成するそのものの存在になったと言える。アール・ブリュットも際立つと宇宙が見える。ますます興味深い。

写真:2009年に滋賀県のボーダレス・アートミュージアムNO-MAで開催された「アロイーズ展」では日本家屋の中にアロイーズの12メーターにも及ぶ絵画を壁面に展示した。
 アートディレクターとして私が考案した展示方法だが、そのイメージを超え強烈なアロイーズの宇宙を感じる印象的な空間となった。(この展覧会は東京ワタリウム美術館、旭川美術館に巡回した。)

(あさひかわ新聞 2013年5月14日発行 工藤和彦コラム「アール・ブリュットな日々」より)

「アール・ブリュット」とは何かを考えてみる(3)

(2013年4月9 日 記事)

 自分のためだけに地球が回っているはずはない。自分にとって都合がいいだけの現実の世界など、あるはずがない。

 しかし、自分という存在を中心に世界を成り立たせる方法がまったく無いとは言えない。現実の世界で生命を維持しながらも、空想や妄想、幻覚、極端な思い込みなどで精神をコントロールし、心の中に非現実の世界を作り上げる。現実の世界から精神だけを分離して、その非現実の世界に閉じこもれば、自分にとって都合のいい世界で暮らすことは可能だ。

 アドルフ・ヴェルフリ(1864―1930)、アロイーズ・コルバス(1886―1964)、ヘンリー・ダーガー(1892―1973)。このアール・ブリュットを代表する三人は、スケールの大きな非現実の世界を心の中に作り上げた。他のアール・ブリュットの作家に比べ、その世界観を作品から垣間みるのは比較的容易だ。それは、彼らが長い年月にわたって膨大な作品の制作を繰り返し、自分の心の中に築いた非現実の世界が色濃いことにほかならない。

 アロイーズ研究に55年もの歳月をかけたアロイーズ財団会長のジャクリーヌ・ポレ=フォレルによると、アロイーズは妄想の中で泥の塊を空中に放り上げ、そこに太陽光線を浴びせることで色や形を生み出し、大好きなオペラの世界観を主体にした、全く新しい「地球」そのものを四十六年がかりで心の中に作り変えてしまったという。

 密教におけるマンダラは、悟りを得るための装置であり、象徴を駆使して全宇宙の姿が描かれていることを前回説明したが、その発想はアール・ブリュットにも見受けられる。
 マンダラの中心には大日如来が描かれており、全宇宙の創造主を表している。そして大日如来を囲むように、如来や菩薩など無数の仏が描かれており、隅に行けば行くほど仏の力量としては低くなるのだが、大日如来が世界の創造主であるのだから、すべての仏は大日如来の化身である。つまり、全宇宙の物質、現象をたどっていくとすべて創造主へと繋がっているという図式だ。全宇宙は創造主そのものと言っていい。アール・ブリュットにおいても、作家は非現実の世界を自身で作り出したのだから当然、創造主として存在しているので、アール・ブリュットの構造も作者が非現実の世界そのものの存在となっている図式なのだ。

 神秘体験によって全宇宙と一体になって、悟りを得るという密教の目的に対して、精神の安定のために非現実の世界を創造主として一から作り上げてしまおうとするアール・ブリュットの作家の考え方は極端でねじ曲がっているようにも思えるが、比較して考察すると大変興味深い。

アロイーズ・コルバスのスケッチブックより抜粋。背景にある赤い卵は作家自身の世界の起源の象徴として描かれているとジャクリーヌさんは分析している。

(あさひかわ新聞:2013年4月9日号 工藤和彦著 「アールブリュットな日々」より)

「アール・ブリュット」とは何かを考えてみる (2)

(2013年3月12日 記事

 何らかの情報がきっかけで、記憶が鮮明となったり、空想や妄想が生じるのは、誰にでも日常的に起こる現象だろう。これは嗅覚、視覚、味覚、聴覚、触覚という五感の膨大な記憶の蓄積が複雑に関連し合って導きだされるものだ。

 人類は古代からこの作用によって五感に働きかけるという手法を巧みに利用してきた。「絵」や「文字」はその最たる物だ。「火」、「水」、「♨」という文字や絵から得る印象はおおむね共通しているはずだ。宗教においてもキリスト教における十字架などは象徴として効果的に利用されている。

 空海が中国から伝えた密教にはマンダラという物があるが、これは難解な密教の教義を象徴を駆使して見事に表している。ちなみに密教とはブッダによって創始された仏教の最終段階にあたるもので、仏教発祥から約千年後の五世紀にインドで発展し、現在はチベット、ネパール、ブータン、日本に伝えられている。

 密教は修行や儀礼によって生じる神秘体験で悟りを得る事を目的としており、マンダラはその神秘体験を導きだす「装置」として考案された。
 このマンダラには、大日如来を中心に無数のホトケや神々が象徴として描かれており、全体で大宇宙を表している。修行ではマンダラを頭の中で思い描く事を繰り返し、神秘体験 によって大宇宙と一体となり悟りを得るというものだ。

(「胎蔵マンダラ」安達原 玄・作)

 私は、このマンダラとアール・ブリュットにいくつかの類似点を見つけ興味深く思っている。
 その最たる点はアール・ブリュットも「装置」としての機能が非常に高いことだ。

 アール・ブリュットの創作者は、造形を繰り返し創造する事により、現実の世界から経験や記憶によって自分にとって都合良く作り上げた非現実の世界に赴き、心の平静を得ている。この行為によって作り出された物を私たちはアール・ブリュットと称しているのだが、作者にとっては非現実の世界へ向かうきっかけ、すなわちスイッチ、装置という役割でしかなく象徴そのものだ。
 現にアール・ブリュットの作者は、出来上がった作品に対しての感心は希薄である。自身の精神世界を色濃く作り上げていくプロセスの方が作品より重要なのであろう。

(あさひかわ新聞 2013年3月12日 工藤和彦コラム 「アール・ブリュットな日々」より)

密教 (ちくま学芸文庫)
正木晃著 密教の歴史的背景やその意味するところ、実践までも解説された貴重な一冊

安達原玄 仏画美術館
仏画師 安達原 玄さんの仏画、マンダラが200点以上展示されています。

「アール・ブリュット」とは何かを考えてみる(1)

(2013年2月12日 記事)

「心」というものは、優秀な外科医や脳科学者、精神科医であっても見ることが出来ない。存在する「形」がないからだ。しかし、私たちは社会生活を営む上で、この実体のない「心」というものを他者と少なからず通わさなければならない。一般的には、社会通念や生活体験を他者と共有し、共感を繰り返すことで、常識的な「心」の有り様を自分の中に築き、相手の「心」を推察できるようになっていく。

 しかし、なかなか上手くいかないのが世の常だ。時には全く「心」が通わないと感じる人もいる。それは共有できる情報量が著しく少ないからでもある。生きて来た過程が、自分のものや一般社会に多くあるものと異なっている場合は、特にその隔たりは大きい。社会生活に興味がない、または孤立して過ごしている人達の「心」の有り様を推察するのは容易ではない。

 先に述べたように、「心」というものは形が無い。入れ物もない。「小心者」と言うように小さくもなるし、「寛大な心」というように大きくもなる。そして、傷つき易くもあるし、強靭でもある。自分のリアルな「心」の有り様を表現することは自分でも難しい。子どもの頃には明確だったかもしれないが、年齢や社会経験を重ねると、世間に理解されずに孤立してしまうのではないかという恐れもあって、次第に抑制してしまい、自分がどんな「心」を持っているかを問われてもあやふやとなる。

 世界にいるのが自分ただ一人で、他者を意識することなく、また理性に抑制される必要もないと考えたら、「心」は一〇〇%開放できるのかもしれない。

 アール・ブリュットは作者が一般社会の常識的な「心」の有り様から逸脱、孤立していることによって自分の「心」の世界を色濃く昇華させた成果でもあるのだ。

 フランスの画家、ジャン・デュビュッフェが提唱した「アール・ブリュット」を私はこのように解釈している。
 「アール・ブリュットとは、経験や記憶によって培われた個人的な哲学思想が反映されて生み出されたもので、着眼点、発想そのものが作者に起因しており、他に類が見当たらない希な表現である」
 (ここでいう「経験や記憶によって培われた個人的な哲学思想」というのは「心」というものを私なりに具体的に考えたもの)

 このような解釈を踏まえた上でアール・ブリュットを見ることにより、作家の世界観がより浮き上がって見ることができる。

(つづく)

Aloise「Le Bateau poules」「めんどり船」
紙、油性チョーク 84×59,5 cm (制作1960~~1963頃)
アール・ブリュットの代表的な作家、アロイーズ・コルバスの作品。
46年間、社会から隔絶された環境で、自分だけの世界を「心」の中に描き出し、その世界の創造主として自分を昇華させ、画面にも登場させている。

(あさひかわ新聞 2013年2月11日号 工藤和彦「アール・ブリュットな日々より」)