日本人の信仰とアール・ブリュット

(2012年1月18日 記事)

「日本人の信仰とアール・ブリュット」

 日本には昔からアール・ブリュットの概念があったと私は考えている。だが、日本人と西洋人では信仰が大きく異なり、両者の思考に大きな違いがあるので、これを証明するのはとても難しい。

 日本では、「八百万の神」(やおよろずのかみ)というように、数えきれないくらいの神様が森羅万象に存在する自然信仰(アミニズム)がベースであるのに 対し、西洋では「神」の存在は絶対唯一である。「木や川、山に神がいる」と西洋人に話してみたところで、「神はいったいどこにいるのか?」と疑問に思うよ うだ。「存在そのものが神」と言っても理解しがたいのだ。

 日本の芸術には自然を意識したものが多い。例えば「茶の湯」である。人工の空間に自然の移ろいを取り込み「わび」「さび」といった日本独特な美意識を体現させる哲学的な表現行為である。

 表現という点では日本古来の自然信仰と密教が結びついて、「空」(くう)の状態が日本ではとても尊ばれている。「空」とは簡単に言ってしまえば「無」の 状態である。「無心」「無我」「無欲」「純粋」「無垢」「素朴」というように、あまり加工されていない「無」に近い存在のものを日本人は尊ぶ傾向にある。 だからといって何もしないのがいいのかと言えば、そうではない。自己の利益や世間のしがらみに左右されることなく物事に没頭している姿というものに神々し さを感じるのだ。

   例えば、諸国を行脚し、粗彫りによって木に神仏の様々な表情を刻んだ円空(1632年―1695年)は、生涯に12万体もの仏像を彫ったとされている。 夥しいほどの創作である。日本人の感覚としては「無我」「無心」の境地に達しようとして円空が彫り続けたことは理解できる。誰も量産して金儲けしていると は思わない。円空人気が今も高いのは、目指すところが「無」であり、その造形の中に自然(神)を見いだすことが出来るからだ。

 山下清が世間に知られ、人気を博した背景には、山下清の作品に「素朴」「純粋」「無垢」や、一枚一枚の紙片を貼付けて作品を仕上げるという途方も無い行為の中に「無我」「無心」を見いだしたからだろうと私は思う。

  私は西洋のアール・ブリュットの概念と日本の「空」という考えには、多くの共通点があるのではないかと考え始めている。

(写真は日本を代表するアール・ブリュット澤田真一氏の作品。ひとつひとつのトゲを無数に付けた造形。どこか神々しさを感じる。窯場には沢山の作品があり、薪窯での焼成を待っている。)

 ※あさひかわ新聞 2012年1月17日「アールブリュットな日々」に掲載した文章です。